安土城跡、七曲り坂~黒金門~信長廟/安土旅行その3
七曲り坂で一休みし出発。武井夕庵邸跡を過ぎると道が二手に分かれます。右は天主への道、左は二王門への道となります。
|д゚) 右に進むぞい
右の道を進むと、左手に森蘭丸邸跡、織田信澄邸跡が出てきますが完全に木々に埋もれているので概要もつかめず。史料でとりあえずあったことは確認されているという感じでしょうか。発掘作業は行われていないようですね
ちょっと進むと黒金門跡。門は残っていませんが、それらしき石垣が残っているので門の姿を想像しやすいですね。近くには説明パネルがあり、「天主焼失時の猛火にも耐え、400年という歳月にも崩れなかった石垣の構築技術の高さ云々」といった解説が書かれています。
|-`) 400年前の佇まいか…
黒金門跡を通過しちょっと進むと仏足石が登場。昭和初期の登山道整備の時に、この付近の崩れた石垣の中から発見されたそうです。その名の通り、釈迦の足跡を表現した石で信仰の対象となったものですが、
(#゚Д゚) 石はしょせん石よ
という織田信長の方針で、石垣の一部として使用されていたようです。で、仏足石の左側の石段を直進すると、二の丸と織田信長の廟(霊を祀る所)に着きます。
( ゚Д゚) 廟があるとは知らんかった
これは、1583年(本能寺の変の翌年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が建立したもので、織田信長の遺品(太刀、烏帽子、直垂など)を埋葬してあるそうです。
余談ですが、織田信長が本能寺に火を放って自刃したことは有名ですが、最近だと本能寺の地下が火薬庫になっていて、火薬の爆発とともに織田信長の遺骸も壮絶に四散したという説があります(明智光秀が信長の遺骸を捜索するも見つけられなかったのはこのためだとか…)。
ちなみに、豊臣秀吉に関しても遺骸は不明とされています。没後に埋葬されたんですが、徳川家康の命によって墓が破壊され、骨もどこかに捨てられたと言われています(秀吉の神としての称号もはく奪し、祀ることも禁じた)。家康がいかに秀吉を憎んでいたかを示すエピソードですが、
|ω・`) 陰湿な家康は好きになれないんです
織田信長が天下を取っていればなぁ…と思いをはせつつ天主へ。しかし、安土城では天守ではなく天主なんですね。織田信長のイメージ的に天主なんでしょうか。
.
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 2012年の「忍城時代まつり」を見学、のぼうの城の効果は(2012.11.11)
- 群馬サファリパークに行ってきました(2012.04.07)
- 鬼気迫る日本兵の銅像がお出迎え/遊就館(その2)(2011.06.17)
- 零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)は思った以上に小ぶり/遊就館(その1)(2011.06.16)
- 2011年の「さきたま火祭り」を見物、忍城おもてなし甲冑隊なども参加(画像沢山あり)(2011.05.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント