安土城跡の大手門に到着。まず目につくのは、果てしなく続く石段(大手道)です。
(;゚д゚) なんじゃこりゃ
石段が何段あるかは後述するとして、安土城についてちょっと説明。
|д゚) 史料の受け売りですがね…
安土城は、織田信長の居城として1576年に築城を開始。3年後の1579年に完成します。が、完成してから3年後(1582年)に織田信長が本能寺で斃れると、その十数日後に安土城の天守も焼失。織田信雄が誤って焼き払ったという説や、明智光秀の残党が火を放ったという説などがあります。
|ω・`) 真相は闇の中なんです
で、焼失の原因だけではなく、当時の安土城がどのようなものだったのかについても、ほとんど記録が残っていないんですね。そして廃城になり山と一体化。その痕跡すら失われつつあるという状況でした。
( ゚皿゚) それではいかんのじゃ
と滋賀県が立ち上がり、平成元年から20年計画で発掘調査&環境整備に着手。といっても、山の自然も残しつつといった方針なので、すべてを発掘しているわけではありません。豊臣秀吉邸跡は、比較的全体像が明らかになっていますが、前田利家邸跡や森蘭丸邸跡などは木々に埋もれています。
( ;∀;) でも20年前とは雲泥の差なんです
20年にわたる調査によって、公家専用の門を設けていたことや、天皇を招待しようとしていたことなどが明らかになっているんですね。まだまだ解明されていない部分も多いのですが、知的好奇心を刺激してやまない史跡というわけです。
( ^ω^) お話はここまで
で、大手道の左側が豊臣秀吉邸跡、右側が前田利家邸跡になります。礎石しかありませんが、安土城考古博物館では、当時の様子をCGで再現したものを見られます。それだと、大手道沿いに塀がズラッと立っているんですね。イメージがガラリと変わるので、訪れる人は、ぜひCG映像も見てほしいです。
|゚Д゚))) それでは大手道を登りましょうか
大手道を登ってすぐの所に石仏の文字を発見。築城時の石不足を補うために、石仏も使用したようですね。織田信長が現実主義であることを伺わせます(石仏=石にすぎないという感じでしょうか)。なお、石仏は至る所で使われています。自分が見ただけで5ヵ所ぐらいはありました。
見学しては登って、見学しては登ってを繰り返すんですが、果てしなく続く石段に
(;´Д`)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ
という感じ。前日に彦根&彦根城を散策し、足に疲労がたまっていた自分は、七曲り坂についた時点で
(´・ω・`) 左ひざをいわしたっす
左ひざが痛くて曲げられない状態に。で、七曲り坂の木に札がついてたんで休憩がてら見ると、「此処は215段目。天主閣跡まであと190段です。頑張って頂上まで行ってみましょう」との励ましの言葉。
(´ω`) まだ登りの半分しか来てないじゃないですか…
とても心が折れるメッセージでした。ここまで来て中途半端で帰るわけにはいかないんで、膝をごまかしつつさらに石段を登ります。
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